ある滞西録

11月の記憶

何を書くか考えているうちに季刊発行になってしまいそうだ。だからあまり考えずに推敲なしでいきます。とても脈絡がない。

 

 

ふと、どこにも寄る辺がないという感覚に襲われる。身の置きどころがない感じ。ある日は所属から解放されたくてしかたないときもあるくらいなのに。漂泊の思いは常々止まないが、畢竟わたしは旅を栖としたくないのだろうかと疑う。このような気持ちの揺り戻しを10年くらいは続けている。定着することとしないことは排反にして同量の不安を内包している。

 

網膜にしみるくらい青い小春日和の空の下に歩いていても突然絶望が、まるで鳥の糞みたいにランダムに落ちてくるときがあってびっくりしてしまう。ある人々との会話の中だけにわたしは実存を感じられたりしている。

 

怒りと嫉妬の感情をもつことが最近とても怖い、七つの大罪か。それらのエネルギーに自分を支配されたくなくて、そうした感情が芽生えそうになったらすぐ摘み取ろうとしている。色即是空などと胸のなかで呟いて受け流そうとしている。本当はいいことなのか、よく分からない。あるいはある種の適応機制。けっこう涙もろかったはずだけど、最近はぜんぜん涙を流していない。そういえば血も流していないのだ。内なる流れが堰き止められている感覚。怒りとして形を帯びることのできなかった感情だけが上澄みのところを流れていく。わたしはその行く先を知らない。澱を抱いて息をしている。

 

小村雪岱の絵に慰められる。すっきり美しい線だ。早川司寿乃の絵と似た雰囲気を感じる。もし影響を受けているとしたら早川さんのほうだけど。『マジョモリ』の挿絵はとくに繊細で美しかった。禁足地ということばがなぜだか好きなのは、この本の影響かもしれない。そのような単語ではないはずなのに、甘やかな響きを伴ってわたしの鼓膜に到来する。

 

長めに帰国できるときがあったら島根を再訪したい。朝もやの宍道湖をゆくしじみ漁船も、県立美術館の庭の因幡の白うさぎ像たちも、豆炭炬燵を備えた堀川の可愛らしい遊覧小舟も、稲佐の浜に落ちる夕陽もすべてがとくべつな美しさで、それはなるほど「神々の国の首都」だった。西行伊勢神宮で「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と詠んでいたけど、わたしは出雲大社とその後ろの八雲山に対してその感覚をもった。800年くらい早かったらたぶんわたしがその和歌詠んでいた。

 

11月13日。5年前に亡くなった祖母の誕生日でもあり、去年死んだ実家の猫の命日でもある。母から、祖母と猫の2つの墓参りに行ったと連絡が来る。猫はトロという名前で、わたしが小学生の頃に拾ってきて一緒に育ったのだった。去年は死ぬすこし前にわたしの夢に出てきて、江國香織の『デューク』みたいに奇跡的な時間を過ごしたけれど、今年は何の音沙汰もなかった。近頃わたしはなかなか夢を記憶できない。記録したくて新しいノートまで用意したのに。いつも起きぬけの空っぽの頭に夢の喧噪だけがぼんやり残っていて、それはとてもうるさいのにでも実像ではなくて、まるで遠くから眺めている祭りみたいだ。夢の通い路が開いたら、いずれわたしの猫にも、故郷のひとびとにも、もうこの世界にはいなくなってしまったあの人たちにも、逢えるだろうか。
トロは湖畔のもみじの木の下にねむっていて、母からは葉の色づきはじめた木の写真が送られてきた。夢十夜。百年待てば、逢えるだろうか。

 

わたしのことをかつてぞんざいに扱おうとした男から何ごともなかったようにまた連絡が来る。わたしがスペインに住んでいることも知らない。ずっと返事も返していないのに何度も連絡をよこす人々がわりといると感じる。わたしにない種類の生命力。開封しないまま通知を削除する。すこしの罪悪感だけ、与えられてしまう。不幸を願うことをわたしの役割にしたくないから、幸せにどっかで生きててくれてたらいいと思う。

 

昨夜はシネテカに『Creature』(2022)を観に行った。アクラム・カーンが振り付けたイングリッシュ・ナショナル・バレエ団のレパートリーの映画版。傑作だと思った。舞踊と映画はこうした相互作用を生みうるのだとまばたきも惜しく見た。 イマーシブ・シアターに参加しているような感覚があった。
人類は宇宙での植民地計画のために、北極圏に置いた基地で「クリーチャー」を使った極限状態の生存実験を行おうとしていた。月面に到達したアポロ11号の宇宙飛行士2人にホワイトハウスから繋がれた電話、そのニクソン大統領の音声が狂ったように繰り返されて不穏だ―― “Because of what you have done, the heavens have become part of man’s world.” クリーチャーの混乱と実験団の人間の機微が、ダンサーの表情を、マイムを、ステップを通して表現される。照明がいい。途中で挟まれる奇妙に歪んだ音階の『ボレロ』はいったい何だったのだろう。メインキャストにENBリード・プリンシパルの高橋絵里奈さん。クリーチャー役のジェフリー・シリオの表情づくりは秀逸で、映像化するならこの役は彼でなければと感じた。彼は元々ABTでプリンシパルだった。猿橋賢さんのダンスール・ノーブル感にじむ所作は作品に多分に優雅を足していた。コンテ専門のダンサーも世に数多いるけれど、わたしはクラシックをベースにするダンサーの踊りがやはり好きで、古典に裏打ちされたテクニックと表現を見ると安心する。スクリーンで観られてよかった。