ある滞西録

秋によせて

このうつくしい季節の中にずっと閉じ込められてしまいたい気がする。たとえこれから数十年の月日が流れ去っても、わたしの2023年の秋は一葉の絵葉書のようになって、この場所に堆積する記憶の一層として、発光し続けるだろう。このところ、場所は記憶をとどめうるか、ということについてときどき考えている。

バスク旅行を終えマドリッドへの帰途につくとき、胸の内に名状しがたい情熱の対流があった。これから先に一週間前までの日常の続きが再び待っているなどおおよそ信じがたいくらいだ。ポケットの観光絵葉書にはCauteretsとあって、それは数日前に訪れたピレネーの山間の美しい村の名前である。思い出が忘却の向こうに去ろうとするとき、葉書は今秋の記憶を手繰る手がかりとなるだろうか。そのときわたしは、どんな言葉でそれを思い出しているだろう。余韻に身を委ねながら、そんなことが頭のなかを気だるく巡った。

休暇をとってスペインとフランスにまたがるバスク地方に旅をした。サン・セバスティアン国際映画祭で毎日映画を観て、それからピレネーに抱かれた青いゴーブ湖を訪れた。静謐で雄弁な自然と映画に囲まれ、うつくしい人々と過ごした数日間の記憶。旅のなかで出逢ったさまざまな瞬間の布置を読もうとすれば、それはひじょうに示唆的な面持ちでわたしの前に立ち上がるのであった。

わたしはマドリッドに帰還した。一年前には未知の場所であったこの街が、今はわたしの生活の場である。一週間ぶりに労働のなかに身を置くと、なんと雑音の多いことだろうか、一気に厭世的な気持ちに襲われた。まだ夢から醒めたくない気がして、映画館や展覧会に繁く通いそこに安寧を求めようとした。然るにわたしの享受しうるこうした文化的営みもまた誰かの労働の賜物である。世の中のシステムへの諦念と敬意を同時に抱きながら、劇場の仄暗い片隅にひとり身を沈めていた。
帰り道は決まって時間をかけて歩いて帰った。道すがら、旅のなかに散りばめられていたいくつもの符号が物言いたげにわたしの前に繰り返し現れる。わたしはそれらを星読みのように解読せねばならないのだろう。

気付けば冬の気配が街を包みはじめていて、実りの秋はなんとも短く、ほとんどわれわれに収穫の時間を与えてくれないくらいだ。いったい秋という季節の領域は年々小さくなり、夏と冬の短い中継ぎでしかなくなってきているように感じる。老祖父母と野山に分け入り木の実や野草を集めて楽しんだ、幼い記憶の内にある長い秋はどこに行ってしまったのか。どこかに行ってしまったのは或いはわたしの折々を慈しもうとする心の方なのか。

さりとて今年の冬は心待ちにしていることがいくつかある。昨年は越冬の感が強かったが、今年は渡りの季節になるという予感がする。欧州の渡り鳥は熱を求めてアフリカ大陸へ渡る。わたしは北へ、北欧を経由して一年以上ぶりに帰国する。それから、いくつかの場所へ旅行もする。それ自体が長い渡りの季節に棲むようなこの逗留生活のなかで、折々の希望を見いだせることがただうれしく、わたしはこれからも生きていけるなと思う。