ある滞西録

ベルリナーレのあとに

最近つぎのステップへの決断をするというできごとがあって、それはおおむね希望の方が大きいことだった。

そういう「晴れ間」みたいな概念が急にもたらされたことでああ自分の上にはずっと雲があったなと合点がいった。もちろん相応の不安も少し離れてついてきて、それによって失うかもしれないもののことを考えるとまた翳りが濃くなる気がするけれど、もうすべてはご縁だから、しょうがないのだと思う。世の中には逆らえない大きい流れがあるということを常々感じている。生まれて目を開けて、死んで目を閉じるまでの刹那のあいだ自分の人生をいくぶん操縦できるのでぜんぶ掌握したような気になっているけれど、その前や後のことはしらない。

ベルリン国際映画祭に行ってきた。きっとこの旅のことを改めては書かないと思うけど、ベルリンは器の大きな街だった。信号機のアンペルマンと、ショーウィンドウに映るロングコートを着た自分のシルエットがなんだか似ている気がして、おかしかった。三宅唱監督の『夜明けのすべて』は、外から救いを得て救われるのではなく、誰かに救いを与えることができる可能性に気づくことで結局自分が救われているという本質の可視化がなんだかうれしかった。プラネタリウムは偽物の小宇宙じゃなくてほんとうの宇宙につながる装置なのかもしれない。この映画に流れる空気がやさしさと称されるものなのかわたしは分からないけれど(でもみんなそう言ってるからきっとそうなんだろう)、現実が含む弱さや清らかさの部分を濃縮して見せられた気がして心地よかった。藤沢さんと山添くんが恋人になるという展開にならなくて本当によかった。わたしたちは自分のヴァルネラブルな部分が肯定される場所でだけちゃんと呼吸できるのかもしれず、2時間後に映画館を出て見た世界には、ひとびとのサンクチュアリが少し増えている気がした。

当の人間がいなくなってしまっても、その人が発した言葉や芸術作品はずっと生きることができて、たとえば何十年後とかに発見されたってそのときに人を救う可能性がある。生き方として、そういうものを世の中に置いていけるのって最高だなと思った。